犬神夜叉さん深夜便 /おはな
嵐の中でいちばんおもしろいのは松潤なのかもってことに今更気づいたりして、色んな意味であーあという感じです。
松潤って、ルックスから受ける印象だと一番ファンタジーだけど、それを持て余している感じがリアルというか、「見た目派手なのに中身結構フツーだよね」の「フツー」の部分がリアルというより、その持て余し感、釣り合いのとれてなさ・いびつさがリアル、って感じで、つまり松潤が「見た目派手だけど中身も派手だよね」でも、それはそれで多分見た目の「派手」と中身の「派手」には微妙な齟齬があって、そのわずかな誤差みたいなとこからリアルが生まれると予想されるからどうあがいてもリアルになる運命で、でもそれによってファンタジックなルックスが損なわれるわけではないから、ファンタジーとリアルが常時同時進行で行われているんだけど、大野君の場合、一見リアルっぽいのにその実誰よりも突出してファンタジックというか、でも大野君の場合、そのリアルさあってこそのファンタジーというか、リアルさを踏まえた上でのファンタジー、リアルから生まれるファンタジー、むしろ存在しないリアルをあるように見せる奇術的なファンタジー、という感じで、二人ともリアルとファンタジーのベクトルが違うというか、違うタイプの「ウソっぽさ」「ホントらしさ」だから、その二人が絡むと変な意味じゃなく妙な化学反応が起きるなあと思いました。いや本当に変な意味じゃなく。
何が言いたかったかというと、JDCシリーズは作者が二次創作を推奨(とは言わないまでも容認)してくれていて、「同人誌(JDC本)を送ってくれると嬉しいです」みたいに後書きで書く(『カーニバル・イヴ』当時)にとどまらず、巻末にこのような呼称表までつけてくれていて至れり尽くせりです。呼称表見てて思ったけど、九十九十九が鴉城蒼也(鴉城蒼司の息子)のこと「蒼也さん」て読んでて、蒼也が九十九十九のこと「九十九」て呼んでるの何かエロいな……どうしよ……それにしてもこの写真撮るとき、自動的に「螽斯」の「螽」の部分にピンポイントでピントが合わされててふいた。いいよこんな字ブレてても!!
松潤って、ルックスから受ける印象だと一番ファンタジーだけど、それを持て余している感じがリアルというか、「見た目派手なのに中身結構フツーだよね」の「フツー」の部分がリアルというより、その持て余し感、釣り合いのとれてなさ・いびつさがリアル、って感じで、つまり松潤が「見た目派手だけど中身も派手だよね」でも、それはそれで多分見た目の「派手」と中身の「派手」には微妙な齟齬があって、そのわずかな誤差みたいなとこからリアルが生まれると予想されるからどうあがいてもリアルになる運命で、でもそれによってファンタジックなルックスが損なわれるわけではないから、ファンタジーとリアルが常時同時進行で行われているんだけど、大野君の場合、一見リアルっぽいのにその実誰よりも突出してファンタジックというか、でも大野君の場合、そのリアルさあってこそのファンタジーというか、リアルさを踏まえた上でのファンタジー、リアルから生まれるファンタジー、むしろ存在しないリアルをあるように見せる奇術的なファンタジー、という感じで、二人ともリアルとファンタジーのベクトルが違うというか、違うタイプの「ウソっぽさ」「ホントらしさ」だから、その二人が絡むと変な意味じゃなく妙な化学反応が起きるなあと思いました。いや本当に変な意味じゃなく。
何が言いたかったかというと、JDCシリーズは作者が二次創作を推奨(とは言わないまでも容認)してくれていて、「同人誌(JDC本)を送ってくれると嬉しいです」みたいに後書きで書く(『カーニバル・イヴ』当時)にとどまらず、巻末にこのような呼称表までつけてくれていて至れり尽くせりです。呼称表見てて思ったけど、九十九十九が鴉城蒼也(鴉城蒼司の息子)のこと「蒼也さん」て読んでて、蒼也が九十九十九のこと「九十九」て呼んでるの何かエロいな……どうしよ……それにしてもこの写真撮るとき、自動的に「螽斯」の「螽」の部分にピンポイントでピントが合わされててふいた。いいよこんな字ブレてても!!
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